No.10

道のり(2)

私の住んでいたおうちはひどいあばら家で、本物のぼろ屋でした。しかしおしゃれなおうちとは違い、「気を遣う必要なんかないだろう?みんなで集まってダベろうぜ」といった中学時代を過ごしました。こうなったのにはわけがあります。私ががさつで傍若無人だったのもありますが、お隣にいた地主のお嬢様は私がいつも店に手伝いに行っていて家にいなくても、生まれつきの病気があったがために私を待っていてくれました。私は彼女のことが大事でした。彼女は心臓が悪かったのですが、「じゃあ私の心臓をくり出して使えばいいよ」などと言うと泣いて嫌がったのです。

しかしある日、彼女は私に詰め寄りました。「一緒に死んで」と。

治療も苦しいし、痛いし、何より彼女のお母様とお兄様が闘病を苦にして入水自殺してしまったことも重なっていました。彼女のお兄様もまた、腎臓病で透析を受けていたそうなのです。

中学生のうちに何度か学校をサボって私たちは一緒に座り込んでいました。碌に校則もない学校だったのに、「時間通り登校して授業を受けてください」なんてものすら守れませんでした。

担任教師は彼女のおうちの事情を知っていて、私に「お前、死ぬなよ」と何度も言っていました。おそらく彼女に直接言うのが恐ろしかったのでしょう。

私は全クラスを渡り歩いて、親友に友達を作らせようとしました。うまくいったと思いきや、彼女が30歳で死ぬ直前にはその時の友達を探そうとした形跡がありました。そう、彼女は友達付き合いが億劫だったというより、どうせ死ぬのだからと消極的だっただけなのでした。

私は放課後に店を手伝い、疲れ果てて、店に行く途中の電車内で何度も倒れました。順天堂の眼科に通っていた時、あのニコライ堂の屋根を見て「あそこには神様がいるらしい、いつか行けたら彼女は苦しまずに人生を終えられるのではないか」と思っていました。早くに死ぬとはあらゆる人に言われていたのです。私はあのとき、あの屋根を見つけられなかったら彼女の「お誘い」を受けていたと思います。

残念ながら、客商売の娘としてはどこかの宗教団体に所属することすら仕事の妨げになるということでこの時に入信することはできませんでしたが、そこに存在するだけでよかったのです。「あそこには神様がいる」と思える特別な場所、神社だとかお寺だとかはうちの店から子どもの足で歩いて20分ちょっとかかり、私の歩く日常の中にはありませんでした。畳む

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