2024年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

ふわふわマットなメイク

カネボウ・ケイトの2024年春限定シリーズ「東京夜喫茶」( https://www.nomorerules.net/special/yoru... )、悪くなかったです。

実は私、派手派手しいメイクばっかりしてきたいわゆる白ギャル時代を経た人間です。しかしおとなしく上品で、なおかつ塗ってないようなメイクにならないものをずーっと探していました。塗ってないようなメイクならしない方がいいなんて思っていたからです。

3番のリップスティックに関してはもう一本欲しいくらい。あんまりダークすぎなくて私には珍しく「ほどよい甘さとふんわり感」でした。これは使い倒せるかもしれません。もうちょっと淡いらしい2番のピンクベージュに憧れるけど、トーン眩めの私の肌にはピンクブラウンでちょうどいいかもしれません…3番を見かけたらまたすぐ買いたいです。

アイシャドウもまた同じトーンのブラウンにしましたが、薄づきでこれまたやわらかい発色。エレガントでちょっぴりピンク。なじむけど地味すぎない!最高に気に入りました。アイメイクを派手にしがちだし優しく淡いリップは久々。マットだからツヤリップほど存在感なくならなくて「何も塗ってない」感じにならなくてありがたいです。

最近ツヤツヤリップから離れたかったからやっとリラックスして使える感じのアイテム手に入れたし気が楽。あとはマット肌になれる日焼け止めを買おうかな。by365とかいうドラッグストアコスメがさらさらしてていいらしいと聞いています。

Kate Steam Matte Nude Lipstick EX-3
Kate Steam Matte Nude Lipstick EX-3
Kate Matte Latte Liquid shadow EX-5
Kate Matte Latte Liquid shadow EX-5


#makeup

Shoppingbag

今日ケイトの限定リップとアイシャドウ発送だと思ってたら「21日から順次発送します」とのことだったのでまだ発送されないっぽいです。残念。なめらか本舗のUV乳液にパウダー、そしてリップとアイシャドウでいい感じのマイルドなメイク、いいじゃないですか~。ナリスアップの日焼け止め( https://www.narisup.com/shop/brand/by365... )も気になってはいます。さらっとしてるっていいなあと思って…ばっちりBBクリーム塗るより気軽でいいかも。

朝から地震あったし不安になる要素いっぱいあってすごく嫌ですね。何も考えたくない。

2月19日に予約して3月4日に返してきちゃった杉里直人訳カラマーゾフの兄弟をもう一度借りてきます。注・解説・年譜編の方は半分くらい読んだものの、ちゃんとばっちり読めたわけではないので…聖人についてだとか、その暗喩だとか、そういうのを読み取れるほど知識がないからああいう専門の方のノートを垣間見るような本はめちゃくちゃ素敵ですね、読まないともったいないレベル。

メール来た!コスメは明日届きそうです。嬉しい!午前中のうちに受け取れるといいなあ。

なんか知らないけどお引越ししてきた人がいる様子。早速様子を伺って仲良くなれそうか観察…(繊細な感性の持ち主である夫は既にかなり嫌がってる。こんな妻と一緒にいたら寿命を短くしてしまいそう)

Diary

心に染みるいい話

上の子の彼氏、優しそうでかわいそうな状況にあってかわいい。大事にしようぜと思っている

Diary

初めてのリップスティックが突然変異を起こして帰ってきた話

初めてのリップスティックを覚えていますか?

私の好きなメーカーは昔も今もカネボウです。もう今では花王に買収されてしまいましたが、逆にこの2024年春に花王のオーブ(ポイントメイク)がブランドごと消滅、カネボウのケイトが生き残るという人気度の差によってブランドやその強気でクールなイメージが残ることになりました。今も1位の資生堂や花王のオーブはどちらも無難フェミニン系のカラーや質感がかぶるからでしょう。

私の初めてのリップスティックはカネボウ・テスティモⅡの「スーパーリップ」です。色番はさすがに忘れてしまいましたがとにかくワインやレッドを1本ずつ、そしてポイントメイクリムーバーを買った覚えがあります。中学生が繁華街で見る女性たちはみなクールな顔をしていましたから、それが当たり前だと思っていたんです。髪を下ろせば相当にエキゾチックな人間に見えていたことでしょう。

この「スーパーリップ」、広告業界では木村拓哉さん、とにかく男性を起用したということで話題になっていました。カップルであることが当たり前という比較的保守的な価値観で、しかしながら強気な色のラインナップ。今ほどは白肌であることにみなこだわりはなく、ファンデーションなどの標準色は少し暗めで黄色みが強かったように感じます。「落ちない」ことに非常に重点を置いた製品で、残念ながら唇は荒れがちでした。

ここ数年で同じカネボウ内で話題になったリップスティックがありましたね。「リップモンスター」「リップモンスタースフレマット」です。こちらもまた「落ちない」ことを重視した製品です。違うのはその落ちない仕組みと、質感です。スーパーリップはとにかくマットで唇の湿度をすっかり奪ってしまっても更に乾燥を引き起こしましたが、リップモンスターはある程度唇の湿度を奪ってジェル膜を作り上げればそれ以上の乾燥をほとんど引き起こす必要はありません。唇に色を定着させること自体は同じでも、メカニズムが違えばこんなにも違うものか…と驚くべきところです。

ちょうど私が高校生だった1998年以降、このカネボウ・ケイトを一度も使ったことのない女性はほぼクラスメイトにはいませんでした。もう常識レベルで使ったことがあるんです。ただ、ギャル系はアイメイク一筋だったためアイメイクだけはケイトを、そしてリップは外資系ブランドを買う、といった人がすごく多かった気がします。美白系スキンケアコスメが流行った後はもう軽めの色も似あうような気がしてディオールのピンク・オレンジ系のキュートなツヤツヤリップを塗るようになっていました。この時はもう、口紅の形をしていてもほぼ色付きリップのような扱いで、落ちたらまた塗ればいいじゃない、という意識です。もはや落ちても誰も気にしないのです。もっともっと軽くカジュアルになったのでした。

しかしカネボウの技術は「落ちない」を諦めなかったのでしょう。人々の意識が口紅をリップクリーム代わりにしてしまっても、やっぱり口紅に戻したかったのかもしれません。そりゃそうですよね、発色のいいリップクリームじゃ本来のコスメ魂には響きません。なんだか納得いかないのを「まあ、いいか~」って流していただけですから。COVID-19、つまり新型コロナウイルスの流行蔓延のためにマスクが必要なアイテムになると、リップ製品とファンデーション、チークは置き去られました。私も肌色のBBクリームとパウダーだけで過ごしていました。でも…ここまでくると「まあ、いいか~」なんて言えなくなってくるんですよね。本当につまらなくて、飽き飽きするし、華やかさの一片も自分から取り去られた気分でした。元々派手なものを常に肌に飾るのが好きだった人は気まぐれに時々塗る私よりもずっとストレスが溜まったのではないでしょうか。

そこに颯爽と現れたリップモンスター。売れないはずがありません。不正な商売だから転売ヤーから絶対に買わないのではなく、衛生用品・医薬品・薬品その他化粧品やそして食料品は絶対に正当な店舗からしか買わないのが常識だと思ってきたため私はひとつたりともそういった個人から買うことはしませんでした。ああいった人々は他人の感情を理解していないのだろうと思いますが、化粧品というのは、特に自分を飾るための製品というのは自分を表現しようというもので、感情を揺さぶるそれを奪っておいて「売ってやる」という姿勢は憎まれて当然です。私は元々が非常にきつい強情っぱりですが、そうでない人を強情っぱりにさせるようなものです。しかも、安室奈美恵さん引退直前にコラボしたViseeのアイシャドウパレットの時よりもずっとストレスがかかった状態ですから…。花王に裏打ちされた生産力に転売ヤーの財力がかなうはずもありません。そのうちに店頭にずらりと並び、新色追加、限定色追加、スフレマット追加と追い打ちがかかり、転売ヤーは在庫の焦げ付きを隠せなくなったようでした。ご愁傷さまです。

1996年の「落ちない口紅」が2021年にまったくの新製品になって帰ってきたお話でした。畳む

Murmur

ケイト!

マットラテリキッドシャドウのEX-2ホワイトピンク

スチームマットヌードリップEX-1ホワイトピンク

ピンク気になる…淡いからいいと思うんだけど、買いすぎが怖くてそんなに買えない。

Murmur

寄生虫のはなし

(※リンク先は病理的話題とはいえセンシティブです)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%...
地方病 (日本住血吸虫症)-Wikipedia

この記事を読んだ時ほとんど甲府地方に長らく続いた寄生虫撲滅の歴史が非常に生々しく感じられ、苦しいほど感動しました。腹水や痛みに苦しみ、その地域にある「地方病」(風土病)がなくなるようにと願ってその当時では検体など恐ろしくてできないような時代の感覚に一切背き自らのなきがらを捧げた女性、医師、軍医、研究者、政府や自治体、そして一般の人々。

凄まじい…もう一度読みます。

Murmur

忘れちゃうのが惜しいとは思うんだけど(3000文字)

憧れのブログってありませんか?

私が「白背景のシンプルなブログ」にこだわり続けている理由。それは…Rさんの「携帯写影」。
http://hemp.blog1.fc2.com

今までのタイトル画像も、とってもスタイリッシュ!
http://hemp.blog1.fc2.com/blog-entry-363...

Rさんとの出会いは確か、FC2ブログ以前の「MEMORIZE」時代。

その頃私は学生で、画像がごちゃごちゃした感じのテンプレートが好きで、ついつい「1KBの素材屋さん」でピンク色や水色のチェック模様の背景をダウンロードして使っていました。でも、Rさんは潔く美しく真っ白なテンプレート!非常に強い印象が残っていました。しかも、長文を書きたくてしかたない病気を持つ言語オタクの私とは違い携帯電話で撮影した画像をペタリ、というこれまた更に潔く美しいスタイル。憧れたけど私にはできません…エンピツ( http://enpitu.ne.jp )の「ドロップシャドウ」や「プチアイコン原色」( http://enpitu.ne.jp/tool/design.cgi ここの下の方に見本があります)を使うのが精いっぱいでした。

メモライズがライブドアに飲み込まれて消滅(ブログ形式になり、元の日記形式が消えたので「消滅」)した後はエンピツ日記を5年から6年利用しました。元の場所に戻ろうか迷いましたが、自分のドメインをGETしたのでもう戻らないことに決めています…もし自分のサイトを維持するのが難しくなったとしても、戻る先はライブドアブログです。

年単位のログは大事にCD-Rに焼いて、更にクラウドに置いてあります。およそ20年前の、約5年分の日記はあまりにも貴重です。しかし、自分の正気を疑っている理由の一つとして、アナログの手帳にもこまごまと書きつけていたことです。実は…それは、今もなんですよね…大人になってから自分の日記帳だと思っているサイトに書き込む量は減ったものの、いまだにデジタルアナログ両方に書いています。私は本当に正気なのでしょうか?

そして子どもたちの存在が親としての自分の収納スペースを圧してきたため、アナログ日記帳を10年連用日記にして4年目です。厚みがさすがに毎日堪えるから、6年後にはきっと5年連用日記を買うことになるかと思います。続ける気なんですよ、私。ただ、持ち歩き用の手帳をB6に格上げしたしもしかしたらそこに全部書けるならそうしようかと考えています。予定が更に増えて、そんなことは無理だろうとは想像がついていますけれども。夫はこんな私に呆れています。

私の書きたい欲は限界を知らず、更にFediverseに文字を激しく打ち込むことまで始めました。Twitter/Xの比ではありません。もうここまでくると確かに根本的にRさんのような潔く美しいブログを作るなんて私には無理だったんだなと思わされます。個性、ここまで憧れをひっくり返すレベルの存在感があるんですね。自作サイトやめたいなと思ってもやめられなかったんです、むしろ変な趣味に入れこまなくて済むんだからこのまま続行するのが正しい趣味の使い方なのかもしれません。世の中はそんなこと求めていませんから、私が取りつかれているだけなんですよね、見返りのない狂気の情熱、もうちょっと正気に近かったらもう2つほど言語をマスターして警察か裁判所に貢献するべきですね。中国語学習者として多少は手伝ってるけど、まあ…ぼちぼちがんばります…。クルド語はいいから(除外していいなんて何かあったのか、あてが見つかったのかのどっちかかなあ)もうロシア語とウクライナ語をやってくれとは言われています…なんというか、世の中学校の成績が優秀な人に奨学金をまいてやればいいと思っている人がけっこうな大多数だと思いますが、私はそこまで優秀ではないけれど必要とされる種類の人間のようです。たぶん成績以上に信用度だよなあと思ったりしますね、いわゆるエリートが社会的カルト(宗教に限らず、思想)の手足になっちゃうの、昔からありますから。

話が逸れましたね、ごめんなさい。日記っていうのは、その日に何が起きたか、何をしたか、何を見て何を感じたか、に集約されます。一番大事なのは最後の「何を見て何を感じたか」です。いまはストリーミングサービスもいっぱいあるし、そのときでないと見られないもの、聴けないものというものがほぼありません。その時に感じたことと今の自分が感じること、全然違うことがありますよね。それが一番「その日の自分」を表しています。

インターネットに触れる以前の自分の行動や感情は繰り返し夢に見ます。幼い頃親が自宅として借りていたボロ屋を退去した後、電気ガス水道全部止まっているにもかかわらずこっそり入り込んでぼんやりしていたのも、言葉にならない思い出です。あの時の自分は手帳にそれを書きませんでした。書けなかったのです、書くためには内容が必要ですが、いまだに言葉にならない経験だったからです。あのとき私は靴のまま上がり、自分の眠っていた部屋や風呂場、日本の古い仕立てのタンス、父のレコードプレーヤー、私はほとんど開けなかった納戸などを見ていました。私のものであり私のものでない場所、そしてこの経験は親の店を閉めて片付けてもらうために頼んだ業者さんが引き払った後の物件を訪れた時も似たような心情になりました。この時のことも私は日記に「空っぽになった店を見に行った、もううちの店ではない」としか書いていません。何を思ったのか、それが空っぽであれば書きようがありません。

40歳をすぎて驚いたことに、そういったことを忘れていくのです。記憶が人を形作ると思っていた私には非常に大きな衝撃がありました。何かを忘れても自分として確かに存在しているのは、はっきりいって奇妙です。そもそも、ある言語を学び始める前の感覚は思い出せませんが、学び進めていく途中の感覚は覚えています。学び始めたばかりの頃は何でもはっきりと聴こえません。大量に聴いてはダイアログを読んで、音声に慣れて、文字に慣れて、それでようやくだんだんはっきりと聴こえるようになります。どの言語もそうです。学んで使えるようになったころには、そのことばが聞こえなかった頃の感覚がありませんし覚えていません。もとの自分を忘れています。

毎日古い自分が死んで新しく生まれているのだという文が伝統的キリスト教にはあります。たぶん正教会、カトリック、ルター派までしかこの発想はないかもしれません。これは教会暦というものがかかわっていて、1年・1週間・1日の中でイイススハリストスの生涯を追って経験するといった目的で作られています。つまり夜眠ったら「死」を意味し、朝起きたら「生」を意味するわけです。修道院だとこれが時課といって何時にそれにあたる祈りをやる、といった感じでもっと具体的になります。

もしかしたら、そういう意図ではないとしても、いつか自分の何かが失われるとき同時に自分の何かが新しくなるのかもしれません。言葉になるものは日記に書けるけど、ならないものは…どんどん失われてしまう、でもそれをそんなに惜しまなくてもいいのかな、と最近になってようやく思えるようになりました。畳む

Murmur,Nostalgies

道のり(9)
私たちの終わり。

私は、親友に自分の結婚について伝えずにいました。彼女は私の家が一般日本人のそういう家だと思っていたし、私も日本の古典や歴史教科書にちらと祖先の名前が載っているような家だとは伝えていませんでした。彼女は私を労働者階級の家庭で、自分たちをそれより上の資本家階級ととらえてその発想で精神的なプライドを保っているようなところがありましたから、それでよかったのです。実際には私の親は純粋な労働者(雇用されている人)ではなく、自営業であり自らの資本で働く「中間」ではありましたがそれはどうでもいいことです。

とにかく、こういった背景があって彼女は私を自分より下だと考えていたのですから、そこで「下」と捉えられている人間が人生の階段を先に上っていくことをどのように伝えるべきか迷ったのです。私たちはもう20代後半にさしかかっていたため、それなりにセンシティブな話題です。私はもう子どもを出産し、無事に育児をしていました。あとは、伝えることしかできません。

しかし彼女はしばらく連絡しなかった私の状況を見抜いていたことでしょう。私はメールを送り、自分の状況を伝えました。結婚し子を産んだと。彼女からの返信は、すぐには来ませんでした。少しだけやり取りをしていましたが、3年ほど経ってから、「もう二度と連絡しないで」というメッセージが送られてきました。

親友はこの時、3回目の心臓の手術を控えていました。しかし、もうこの時には私に連絡してくるおばあさまは亡くなっていましたし、あの従姉やおば、お父様が連絡してくるはずはありません。私は知らずに、待ち続けました。彼女のことで恩を感じていた遠縁のおばさまご一家から、彼女の死を知らされるまで。

私たちの糸は、ふっつりと途絶え、鏡合わせのように過ごした時間は終わりました。私の結婚・出産と、彼女の死は、絶対的な分断でした。彼女の家のお墓があるお寺に電話をすると、「隣に住んでいた○○さんですね」と思い出されていました。彼女はお母様やお兄様のお墓に一緒に入ったのですか、と尋ねると、ええそうです、と。また、命日を尋ねると私が彼女からもう返事が来ないであろうと感じていた頃に亡くなったことがわかりました。驚いたことに、その日は夫の誕生日でした。

これが、私と親友の終わりです。畳む

Nostalgies

道のり(8)
国外脱出、ならず

国外脱出を控え、私はひっそりと他人名義のお部屋にいました。空港への直行バスに乗り、空港の椅子に座っているところで私はもう出国できないことを知りました。私は…もう疲れてしまって、再び「国内」に連れ戻されました。隙を見てある場所へ向かい、更に身を隠しました。親は見張りに逃げられてしまったようでした。残念ながら、見張りに使われていた人も詳細な状況を知って逃げ出したのでしょう。けむにまいていたかもしれませんが、バレる時はバレるものです。親はもう私より不利な立場に落ちました。誰も彼らの味方にはなりません。

友人たちはアルバイトを紹介してくれたのでそれまでで貯金を崩してしまった私の助けになりました。変に立派な仕事に就くと親の知っている人に出くわしてしまうため、そういう人の来ないジャンクフードを扱っていました。

再びほかの外国人がお付き合いしたいと近寄ってきましたが、どうも日本国籍目当てでしかなさそうだったからと冷淡にしていたらそのうち別れました。しかし納得してお別れするまでに半年を要してうんざりしました。その時には日本人の男性も現れ、父方本家の職業と同じということで反対される理由ももう出せないだろうと思い、親に一切連絡することなく結婚、妊娠、出産を済ませました。私はもう成人でしたから…畳む

Nostalgies

道のり(7)
家出をした先で待っていたのは

家出をし、私は小さなキャリーケースとリュックで実家を後にしました。横浜市に移り住み、相変わらず人混みにまぎれて暮らそうと思っていました。しかしその次の日には玄関前にある人が立っていました。私は仲間を呼び、その人物がいなくなってからすぐにそこを離れしばらくその物件には戻りませんでした。

すっかりストレスで疲れ果ててしまった私は友人の家で寝て過ごしました。台湾で処方されたプロザックは底をつき、日本で処方されたほかの抗うつ薬を飲んでからだに合わず他のものに変えてもらうなどしていました。元彼の(大学時代の)先輩からは事情を知らぬままなのに「親を大事にしないからだ」などと罵られましたが年上の女性に怒る気も失せた私が「そうですね、殺されるんでしょうか」と返答したところ何も言わず帰っていきました。

一般的には親子間に問題があれば親から狙われるのでしょうが、私の場合はまったくの他人が使われていました。私には生命保険が限度額めいっぱいかけられているのを知っていました。保険会社に勤めている人からは、そのリスクがあるということを伝えられていました。母にとって私にはそういう利用価値があったわけです。それに反して、私が生きていて、色々と知っていることにも利用価値はありました。従兄や日本人の友人たち、そして海外のある友人たちは私をかくまうのに色々手だてを持っていました。

死ぬ価値と生きる価値です、どんなやり取りもすべては価値というもののバランスの上にありました。盤上の主は私を駒のひとつとして考えていても、私の生死はたった一度きりのものです。私はこっそり、貴金属を集めては少しずつ大きなものへと変えていきました。ふたたびどこかに渡航する可能性を考えていたからです。今度は、身一つで。

私は元彼に助けを求め、いくらか送金してもらい、決定的な瞬間を待っていました。畳む

Nostalgies

道のり(6)
複数言語の環境で、落ち着けるかと思ったのに。

台湾は、不思議な国です。各家庭には家庭語として客家語、台湾語、原住民語などがあります。学校や役所では中国語か英語が使われます。私はこのうち、中国語と台湾語(ホーロー語)を学びだいたい使えるようになっていました。日本にいるうちに、卒業単位にならないとは言われながらも学科を越境して中国語の音声を基礎からやり、その上に第二外国語を続けました。台湾語を約1年間続けましたから聞き取ることは容易な状態で渡航したのです。

そのうちになぜか、私は中国語学校で有名になっていました。奨学金試験で1位を取り、各国から1人しか得られない奨学金を勝ち得ていたからです。しかも、中国語学科出身ではありません。更に台湾語も知っている、おそらくほかの日本人からは「在外台湾人(華人)なのでは?」という疑いをかけられていました。500年さかのぼっても私は日本人です。

こちらが順調な反面、私の実母がひどくおかしくなってしまい、彼氏のご両親に「娘をお願いします」と言ったのに婚姻の手続きをする1週間前にそれを突然やめろと大騒ぎになってしまいました。私はついていけず、精神的な調子を崩しました。適応障害です。

婚約はなかったことになりました。しかし私はまだ学校を修了していません。そのうちに親の「お使いさん」が来ました。学校を勝手にやめさせられ、私は帰国させられました。

母方の一番上の従兄はこれを知って、成田空港に迎えに来てくれました。私があちらで受け取った薬や成績表などを見て、一緒に怒ってくれました。「私はこのまま母と一緒に住むわけにはいきません」と言い、南アジア圏内の人間には「どの学校名もわかる」ルートを辿った経歴ですぐに就職も決まり実家を出ました。それまでのたったの3ヶ月の間に私は体重は10kg落ちてガリガリになりました。それもそうです、毎日パスポートや健康保険証を出せと母に脅迫される時間を過ごしていたのですから。実際には人にそれを預けていました。自分名義の借金なんか作られた日には最悪です。畳む

Nostalgies

道のり(5)
お酒は、まだ。

私たちは無事にそれぞれの高校を卒業し、大学に入学しました。私は元からどこの大学に絶対に入学すると公言していました。親友のおばは見栄を非常に刺激されたことでしょう。滞りなく受験できたようでした。

私はまず彼氏ができ、それと同時に少し悩み始めました。私は日本を離れたいし、彼も日本に就職するつもりはありませんでした。周りには外国人留学生がたくさん集まりました。そのうち<a href="https://nilanjanbandyopadhyay.wordpress.... target="_blank" title="">Nilanjan</a>とも知り合いになったり、タイ人、韓国人、台湾人と話すことが増えました。残念ながら外国語学部には中国人が少なく、接点があまり多くはありませんでした。

卒業前に、私は親友に会いに行きました。飲みに誘ったのです。そのときはまだ、彼女もお酒は飲まないと言ってハンバーガー屋さんに入って一緒に食事しました。

卒業式の次の日、私はもう日本を離れていました。この日、私は親友のことを考えるのをやめました。畳む

Nostalgies

道のり(4)
16歳。死と隣り合わせの生は輝いていると言えるのか誰も答えない。むしろ死ねと言われてしまう。

夏休み。私は店の近くの柏そごうと連結していた柏スカイプラザビル3階からフロアを地下に移すと伝えに来た浅野さんの旦那様に久々に会いました。ひとつの最寄り駅につながった商店街組織でもこんなに会わないものかと思っていました。地権者としての浅野書店は奥様のもので、この旦那様は元日銀職員だったのです。そういった感情の上の事情があり、奥様のお父様は実は結婚を許していませんでした。2018年頃に廃業した彼らの原因は1997年にはそこにあったのです。有限会社なのに、婿として正式に入れずに社員として働かせていたのです。お子さんができるはずもありませんでした。彼は私に結婚は親に左右されてはならないとこっそり話していました。自分の父も自分の娘がそんなことを知らされているとは気付かなかったでしょう。父と彼は同い年の仲間でした。

女は結婚するとき、「嫁として家に入る」のが現実です。いつかは親友ともそういった別れをしなくてはならない…私は目を閉じていました。女の子が2代も続けて生まれることのない父方親族と、床屋というほぼ男性しか来ない環境の中で、私は男の子になれるのではないか、なれてしまえばいいのにと思って現実から目を背けていました。男の子なら、親友と結婚することもできますから。妊娠が禁忌である人と結婚してくれる男性など、いないようなものでしょう。

そう思っている最中に親友やそのおばあ様から連絡が来ました。「二回目の心臓の手術が終わったから、会いに来てほしい。松戸の○○病院にいるから」と。私は京極夏彦の分厚い本をわざと持っていきました。彼女は絶対に読みません。身体に障るからです。

運がよかったのです、彼女の従姉とは会いませんでした。顔を合わせていたら一方的に怒鳴られていたことでしょう。何しろ彼女の父方の姉やその娘は「あの子が早く死ねば、私たちの相続分が増える」と考えていておばあ様は神経をとがらせていました。彼女は私と病室に二人きりになり、胸の傷を見せました。無事でいてくれて嬉しい、終わりまではあなたの命はあなたのものだ、といったことを離した覚えがあります。

早く死ぬことがわかっているのに抗うのは愚かでしょうか。あの従姉とおばさんは私たちを嘲笑していました。それでも私たちは幸せでした。「ハタチ過ぎたらさ、酒を一緒に飲もう」と私たちは約束しました。酒は心臓に悪いものです。でも、生きているうちにしかできないことがあるのです。他の人が病室を訪れない様子を見れば、彼女がやっぱり友達を自分で作ってお付き合いを続けることができていないのはわかっていたんです。畳む

Nostalgies

この前残念なことが起きました。

お気に入りの翡翠のブレスレットはビーズが割れてしまったのです。やっぱり、アクセサリーは金属に限りますね。少し長くかかっても貯金して金属の指輪やブレスレットを手に入れようと思います。

Diary

自分のサイトvs.Misskey鯖

貯金のためにどっちかにしていきたいと思ってるんです。というかずっとMisskey鯖にいて、段々ここに投稿しなくなっちゃってよくないですね。本当に無駄遣いしちゃってる気がします。まあ…でも2028年初頭までは支払い終わってるので当面はこのまま使います。私に精神的余裕がないんでしょうね。体調もよくないし…とにかくMisskey鯖への支援は主に棲みついている1箇所だけ続けます。あそこは、宝です。本当は2箇所続けたいのですが、どうも首が回りません。指輪やその他アクセサリーがどうしても欲しい、それは本心からの欲求です。自分の願いをかなえるためにほそぼそと貯金して、それをもとに買いたいと思います。プラチナか、ホワイトゴールドか、それともステンレスになってしまうかはわかりません。

そういえば、色々あって図書館に行ったり本を読んだりする精神的余裕までもが削れてしまったためあのカラマーゾフの兄弟はいったん途中まで読み終えて図書館に返却してきました。しばらくは静かにラジオでも聴きながら休み休み手続きに奔走します。

Diary

2024年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

頭痛

どういう訳か、起きるといつも頭痛に悩まされています。寝る直前の入浴はあまりよくなさそう。うち帰ってきたらすぐシャワー浴びるのがベストだなと思います

Diary

本をよみたいんだよな。

杉里直人訳「詳注版カラマーゾフの兄弟」
「詳注版カラマーゾフの兄弟  注・解説・年譜篇」

この本の違いがわからなかったのでとりあえず両方とも図書館で予約してみました。どちらも9000円、水声社のサイト( http://www.suiseisha.net/blog/?p=12018 )によると18000円とあるのでこれはセットなのでしょう。すさまじい。お値段が凄い。喉から手が出るほど欲しいとは思いましたがぐぐっとこらえて図書館で借りて読むんです。できることなら、子どもたちのことをすっかり忘れて2時間か3時間こういう本に熱中していたいものです。

他に黒田龍之介先生の『ロシア語だけの青春 ミールに通った日々』だって欲しいんです。気が狂ってしまうほどあの「青春」の意味が分かります。外国語だけに心血を注いだあの時間のことをいうんです。私は英語や中国語・台湾語、彼はロシア語やほかのスラブ系言語、しかし彼の「ミール」での学習手法は本当に似たようなもので、あの本を読むとあまりの懐かしさや苦しさに大学時代の夢を繰り返し見ます。私は大学時代変人と呼ばれていました。英語学科なのになぜ中国語学科の先生たちに頭を下げて卒業単位に数えてもらえなかった講義に出席し、うまく使えない悔しさに涙しながら情熱を傾けていたのか…一部の英語学科の日本人学生は中国語や台湾語を「格下」とみており必死でそういった時間を過ごしていた私の陰口を叩いていたのはよく知っています。でも、私が求めていたのは他人からの理解ではなく私がターゲット言語を理解することでした。それでも、英語学科の日本人学生たちは私に逐語訳ノートを見せてくれとしつこくつきまとっていました。英語だけやっているのなら私よりできがいいのではなかったのでしょうか?そんな風に続けていたから、日本人学生より年上、働いてお金を貯めて日本に来た外国人留学生たちは私の存在を認めてくれていたのかもしれません(卒業後、この変人のおかげなのか越境して受講すると単位をもらえるようになったようです)。

ところで、図書館には市立図書館、県立図書館、国立国会図書館の3種類があります。私はまだほかの用事でスケジュールをめちゃくちゃにされているためにマイナンバーカードの手続きができずにいます。後者2つの図書館カード発行に必要な身分証としては住民票を発行してもらって県立図書館と国会図書館の手続きをしてIDを作ることだけは先にやってしまわなくてはいけません。今度白髪を染めたら写真を撮ってマイナンバーカードの手続きもしなくてはいけませんが、お目当ての本がある図書館よりも後回しです。いちおう今は仕事してませんから(というか同時にのしかかってきた義両親の介護や子どもたちの入学手続きなどでそれどころではなくなってしまった)、再開するまでの間にそれはやれればいいんです。

はあ…時間が欲しい。自分のためだけの時間が。

それでもねえ、長いこと聴いていると以前よりもロシア語がはっきりと聴こえるんですよ。中国語を続けていても、最初の頃ははっきり聴こえなくて何時間も聴いていたのを思い出して、生きているってこういうことだよねと一人で不気味に笑っています。

Diary

うわー、まじスパムふざけんなーって感じです。もこきーにいきたいんだよ!もふもふクラブの民だからね!もふもふとかもこもことか絶対ラブなんですよ。えーん

Diary

きっと

すべては一時の気の迷いだと思うことにしました。私に関してはね。いいのいいの、そんなものだもの。

Diary

道のり(3)
”Why long face?"

自由と、友人を守ることの間で揺れ動き続けました。

あのあばら家を後にしてマンションに引っ越し、親友のおばあ様は私に泣いてすがりました。私は親友の従姉にうんざりしていたし、何より高校受験の時に体に無理のきかない人と成績の差がどんどん開いていくのを無視することはできませんでした。父の購入しようとしていたマンションはちょうど、学区の重ならない地域に位置し私の心配を少し削りました。

都市部から郊外へ。それは私の適応したことのない場所で、左手で箸を持つ私に「障碍者!」と呼ぶ人がいるほどの文化の差がありました。傷つくほどの繊細さを持たない私はそれを自分のキャラクター付けとして利用し、あらゆる人に名前を覚えさせました。ただし、あまり有用な人物が見つからず次第に興味を失いました。

高校受験を終わらせた私は、合格通知を手にある人物を訪れました。引っ越すまでの間、ほぼ毎日顔を合わせていたのですが、約1年半の間に彼女は亡くなっており落胆しつつも、彼女の鍵のかからない扉から入り彼女のお気に入りだったあるものを撫でて、そうして立ち去りました。満州出光に勤めていた彼女の旦那様と一緒に持ち帰ったという小さな置物です。

私は店の近所にいた黒人男性と顔なじみになりました。どんなにできが悪くても言語能力は別です。そのうちに私は科学雑誌を日本語から英語に、そして科学雑誌をやめて言語を志すことにしました。この黒人男性はJosephといい、弟と一緒にあの一帯の地主さんのマンションを借りて住んでいました。この地主さんに悪気がないのはわかっていましたが、「あの黒人と口を利くのはやめろ」と言われてしまい、面食らったことがありました。実は、彼は日本語をほぼ話さないので漏れることはないだろうと思い自分の悩みを打ち明けていました。彼はいわゆる典型的なカトリック教徒で、私に「ふしぎのメダイ」をひとつわけてくれて言いました。「学校には、ちゃんと行けよ。何とかなるよ。俺も祈るし、神父様だってたくさん祈るんだ。」

私は祈りたかったけれど、祈る言葉を持たないままではいられないだろうと感じていました。今度は、親友を見送らねばならないかもしれない…と思っていたからです。畳む

Nostalgies

道のり(2)

私の住んでいたおうちはひどいあばら家で、本物のぼろ屋でした。しかしおしゃれなおうちとは違い、「気を遣う必要なんかないだろう?みんなで集まってダベろうぜ」といった中学時代を過ごしました。こうなったのにはわけがあります。私ががさつで傍若無人だったのもありますが、お隣にいた地主のお嬢様は私がいつも店に手伝いに行っていて家にいなくても、生まれつきの病気があったがために私を待っていてくれました。私は彼女のことが大事でした。彼女は心臓が悪かったのですが、「じゃあ私の心臓をくり出して使えばいいよ」などと言うと泣いて嫌がったのです。

しかしある日、彼女は私に詰め寄りました。「一緒に死んで」と。

治療も苦しいし、痛いし、何より彼女のお母様とお兄様が闘病を苦にして入水自殺してしまったことも重なっていました。彼女のお兄様もまた、腎臓病で透析を受けていたそうなのです。

中学生のうちに何度か学校をサボって私たちは一緒に座り込んでいました。碌に校則もない学校だったのに、「時間通り登校して授業を受けてください」なんてものすら守れませんでした。

担任教師は彼女のおうちの事情を知っていて、私に「お前、死ぬなよ」と何度も言っていました。おそらく彼女に直接言うのが恐ろしかったのでしょう。

私は全クラスを渡り歩いて、親友に友達を作らせようとしました。うまくいったと思いきや、彼女が30歳で死ぬ直前にはその時の友達を探そうとした形跡がありました。そう、彼女は友達付き合いが億劫だったというより、どうせ死ぬのだからと消極的だっただけなのでした。

私は放課後に店を手伝い、疲れ果てて、店に行く途中の電車内で何度も倒れました。順天堂の眼科に通っていた時、あのニコライ堂の屋根を見て「あそこには神様がいるらしい、いつか行けたら彼女は苦しまずに人生を終えられるのではないか」と思っていました。早くに死ぬとはあらゆる人に言われていたのです。私はあのとき、あの屋根を見つけられなかったら彼女の「お誘い」を受けていたと思います。

残念ながら、客商売の娘としてはどこかの宗教団体に所属することすら仕事の妨げになるということでこの時に入信することはできませんでしたが、そこに存在するだけでよかったのです。「あそこには神様がいる」と思える特別な場所、神社だとかお寺だとかはうちの店から子どもの足で歩いて20分ちょっとかかり、私の歩く日常の中にはありませんでした。畳む

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