カテゴリ「Nostalgies」に属する投稿12件]

しまったままの記憶が引っ張り出される瞬間

https://maidonanews.jp/article/13821516
まいどなニュース: シャンプー中に聞かれる「痒いところありませんか」…質問に込められた「3つの意味」<散髪屋さん編>

タイトルとは違うところで懐かしさを感じました。
「0」「1」「2」「3」「4」「5」「6」「7」「8」「9」
これが関西だと次のようになるそうだ。
「ボウズ」「シャー」「ノン」「ミミ」「ヌケ」「テラ」「ハナ」「カギ」「ヒョコ」「ノシ」
そして関東ではこのようになる。
「トビ」「ヘイ」「ビキ」「ヤマ」「ササキ」「カタ」「サナダ」「タヌマ」「ヤワタ」「キワ」


父方は広島の人でしたから、もちろん関西圏の隠語を知っていました。
「ぼうず」はもちろん「無」、「しゃー」は1を書く時の音、「のん」は繋げて書けば2になる、3は「耳」の形、4の2画目が1画目を「ぬく」から「ぬけ」…といった感じです。小学生の時に聞いたことですが、覚えているものですね。

いつも夜10時や9時に店の片づけをして自宅に帰る生活が「よかった」とは思いませんが、私は確かにああするしかなかったなと思いなおしたりします。

Nostalgies

どうせ悲しみが多いのだから

お別れや喪失が多すぎる人生の中で、あのお別れだけを特別視する必要ってもうないと思うの。

元彼やご家族との思い出を思い出にすることにしました。妹さんにももうメッセージを送らないし、お父様やかわいらしい従弟さんのことももう思いめぐらしたりしない。

ああ、さよなら、20年前の奇跡。

Nostalgies

忘れちゃうのが惜しいとは思うんだけど(3000文字)

憧れのブログってありませんか?

私が「白背景のシンプルなブログ」にこだわり続けている理由。それは…Rさんの「携帯写影」。
http://hemp.blog1.fc2.com

今までのタイトル画像も、とってもスタイリッシュ!
http://hemp.blog1.fc2.com/blog-entry-363...

Rさんとの出会いは確か、FC2ブログ以前の「MEMORIZE」時代。

その頃私は学生で、画像がごちゃごちゃした感じのテンプレートが好きで、ついつい「1KBの素材屋さん」でピンク色や水色のチェック模様の背景をダウンロードして使っていました。でも、Rさんは潔く美しく真っ白なテンプレート!非常に強い印象が残っていました。しかも、長文を書きたくてしかたない病気を持つ言語オタクの私とは違い携帯電話で撮影した画像をペタリ、というこれまた更に潔く美しいスタイル。憧れたけど私にはできません…エンピツ( http://enpitu.ne.jp )の「ドロップシャドウ」や「プチアイコン原色」( http://enpitu.ne.jp/tool/design.cgi ここの下の方に見本があります)を使うのが精いっぱいでした。

メモライズがライブドアに飲み込まれて消滅(ブログ形式になり、元の日記形式が消えたので「消滅」)した後はエンピツ日記を5年から6年利用しました。元の場所に戻ろうか迷いましたが、自分のドメインをGETしたのでもう戻らないことに決めています…もし自分のサイトを維持するのが難しくなったとしても、戻る先はライブドアブログです。

年単位のログは大事にCD-Rに焼いて、更にクラウドに置いてあります。およそ20年前の、約5年分の日記はあまりにも貴重です。しかし、自分の正気を疑っている理由の一つとして、アナログの手帳にもこまごまと書きつけていたことです。実は…それは、今もなんですよね…大人になってから自分の日記帳だと思っているサイトに書き込む量は減ったものの、いまだにデジタルアナログ両方に書いています。私は本当に正気なのでしょうか?

そして子どもたちの存在が親としての自分の収納スペースを圧してきたため、アナログ日記帳を10年連用日記にして4年目です。厚みがさすがに毎日堪えるから、6年後にはきっと5年連用日記を買うことになるかと思います。続ける気なんですよ、私。ただ、持ち歩き用の手帳をB6に格上げしたしもしかしたらそこに全部書けるならそうしようかと考えています。予定が更に増えて、そんなことは無理だろうとは想像がついていますけれども。夫はこんな私に呆れています。

私の書きたい欲は限界を知らず、更にFediverseに文字を激しく打ち込むことまで始めました。Twitter/Xの比ではありません。もうここまでくると確かに根本的にRさんのような潔く美しいブログを作るなんて私には無理だったんだなと思わされます。個性、ここまで憧れをひっくり返すレベルの存在感があるんですね。自作サイトやめたいなと思ってもやめられなかったんです、むしろ変な趣味に入れこまなくて済むんだからこのまま続行するのが正しい趣味の使い方なのかもしれません。世の中はそんなこと求めていませんから、私が取りつかれているだけなんですよね、見返りのない狂気の情熱、もうちょっと正気に近かったらもう2つほど言語をマスターして警察か裁判所に貢献するべきですね。中国語学習者として多少は手伝ってるけど、まあ…ぼちぼちがんばります…。クルド語はいいから(除外していいなんて何かあったのか、あてが見つかったのかのどっちかかなあ)もうロシア語とウクライナ語をやってくれとは言われています…なんというか、世の中学校の成績が優秀な人に奨学金をまいてやればいいと思っている人がけっこうな大多数だと思いますが、私はそこまで優秀ではないけれど必要とされる種類の人間のようです。たぶん成績以上に信用度だよなあと思ったりしますね、いわゆるエリートが社会的カルト(宗教に限らず、思想)の手足になっちゃうの、昔からありますから。

話が逸れましたね、ごめんなさい。日記っていうのは、その日に何が起きたか、何をしたか、何を見て何を感じたか、に集約されます。一番大事なのは最後の「何を見て何を感じたか」です。いまはストリーミングサービスもいっぱいあるし、そのときでないと見られないもの、聴けないものというものがほぼありません。その時に感じたことと今の自分が感じること、全然違うことがありますよね。それが一番「その日の自分」を表しています。

インターネットに触れる以前の自分の行動や感情は繰り返し夢に見ます。幼い頃親が自宅として借りていたボロ屋を退去した後、電気ガス水道全部止まっているにもかかわらずこっそり入り込んでぼんやりしていたのも、言葉にならない思い出です。あの時の自分は手帳にそれを書きませんでした。書けなかったのです、書くためには内容が必要ですが、いまだに言葉にならない経験だったからです。あのとき私は靴のまま上がり、自分の眠っていた部屋や風呂場、日本の古い仕立てのタンス、父のレコードプレーヤー、私はほとんど開けなかった納戸などを見ていました。私のものであり私のものでない場所、そしてこの経験は親の店を閉めて片付けてもらうために頼んだ業者さんが引き払った後の物件を訪れた時も似たような心情になりました。この時のことも私は日記に「空っぽになった店を見に行った、もううちの店ではない」としか書いていません。何を思ったのか、それが空っぽであれば書きようがありません。

40歳をすぎて驚いたことに、そういったことを忘れていくのです。記憶が人を形作ると思っていた私には非常に大きな衝撃がありました。何かを忘れても自分として確かに存在しているのは、はっきりいって奇妙です。そもそも、ある言語を学び始める前の感覚は思い出せませんが、学び進めていく途中の感覚は覚えています。学び始めたばかりの頃は何でもはっきりと聴こえません。大量に聴いてはダイアログを読んで、音声に慣れて、文字に慣れて、それでようやくだんだんはっきりと聴こえるようになります。どの言語もそうです。学んで使えるようになったころには、そのことばが聞こえなかった頃の感覚がありませんし覚えていません。もとの自分を忘れています。

毎日古い自分が死んで新しく生まれているのだという文が伝統的キリスト教にはあります。たぶん正教会、カトリック、ルター派までしかこの発想はないかもしれません。これは教会暦というものがかかわっていて、1年・1週間・1日の中でイイススハリストスの生涯を追って経験するといった目的で作られています。つまり夜眠ったら「死」を意味し、朝起きたら「生」を意味するわけです。修道院だとこれが時課といって何時にそれにあたる祈りをやる、といった感じでもっと具体的になります。

もしかしたら、そういう意図ではないとしても、いつか自分の何かが失われるとき同時に自分の何かが新しくなるのかもしれません。言葉になるものは日記に書けるけど、ならないものは…どんどん失われてしまう、でもそれをそんなに惜しまなくてもいいのかな、と最近になってようやく思えるようになりました。畳む

Murmur,Nostalgies

道のり(9)
私たちの終わり。

私は、親友に自分の結婚について伝えずにいました。彼女は私の家が一般日本人のそういう家だと思っていたし、私も日本の古典や歴史教科書にちらと祖先の名前が載っているような家だとは伝えていませんでした。彼女は私を労働者階級の家庭で、自分たちをそれより上の資本家階級ととらえてその発想で精神的なプライドを保っているようなところがありましたから、それでよかったのです。実際には私の親は純粋な労働者(雇用されている人)ではなく、自営業であり自らの資本で働く「中間」ではありましたがそれはどうでもいいことです。

とにかく、こういった背景があって彼女は私を自分より下だと考えていたのですから、そこで「下」と捉えられている人間が人生の階段を先に上っていくことをどのように伝えるべきか迷ったのです。私たちはもう20代後半にさしかかっていたため、それなりにセンシティブな話題です。私はもう子どもを出産し、無事に育児をしていました。あとは、伝えることしかできません。

しかし彼女はしばらく連絡しなかった私の状況を見抜いていたことでしょう。私はメールを送り、自分の状況を伝えました。結婚し子を産んだと。彼女からの返信は、すぐには来ませんでした。少しだけやり取りをしていましたが、3年ほど経ってから、「もう二度と連絡しないで」というメッセージが送られてきました。

親友はこの時、3回目の心臓の手術を控えていました。しかし、もうこの時には私に連絡してくるおばあさまは亡くなっていましたし、あの従姉やおば、お父様が連絡してくるはずはありません。私は知らずに、待ち続けました。彼女のことで恩を感じていた遠縁のおばさまご一家から、彼女の死を知らされるまで。

私たちの糸は、ふっつりと途絶え、鏡合わせのように過ごした時間は終わりました。私の結婚・出産と、彼女の死は、絶対的な分断でした。彼女の家のお墓があるお寺に電話をすると、「隣に住んでいた○○さんですね」と思い出されていました。彼女はお母様やお兄様のお墓に一緒に入ったのですか、と尋ねると、ええそうです、と。また、命日を尋ねると私が彼女からもう返事が来ないであろうと感じていた頃に亡くなったことがわかりました。驚いたことに、その日は夫の誕生日でした。

これが、私と親友の終わりです。畳む

Nostalgies

道のり(8)
国外脱出、ならず

国外脱出を控え、私はひっそりと他人名義のお部屋にいました。空港への直行バスに乗り、空港の椅子に座っているところで私はもう出国できないことを知りました。私は…もう疲れてしまって、再び「国内」に連れ戻されました。隙を見てある場所へ向かい、更に身を隠しました。親は見張りに逃げられてしまったようでした。残念ながら、見張りに使われていた人も詳細な状況を知って逃げ出したのでしょう。けむにまいていたかもしれませんが、バレる時はバレるものです。親はもう私より不利な立場に落ちました。誰も彼らの味方にはなりません。

友人たちはアルバイトを紹介してくれたのでそれまでで貯金を崩してしまった私の助けになりました。変に立派な仕事に就くと親の知っている人に出くわしてしまうため、そういう人の来ないジャンクフードを扱っていました。

再びほかの外国人がお付き合いしたいと近寄ってきましたが、どうも日本国籍目当てでしかなさそうだったからと冷淡にしていたらそのうち別れました。しかし納得してお別れするまでに半年を要してうんざりしました。その時には日本人の男性も現れ、父方本家の職業と同じということで反対される理由ももう出せないだろうと思い、親に一切連絡することなく結婚、妊娠、出産を済ませました。私はもう成人でしたから…畳む

Nostalgies

道のり(7)
家出をした先で待っていたのは

家出をし、私は小さなキャリーケースとリュックで実家を後にしました。横浜市に移り住み、相変わらず人混みにまぎれて暮らそうと思っていました。しかしその次の日には玄関前にある人が立っていました。私は仲間を呼び、その人物がいなくなってからすぐにそこを離れしばらくその物件には戻りませんでした。

すっかりストレスで疲れ果ててしまった私は友人の家で寝て過ごしました。台湾で処方されたプロザックは底をつき、日本で処方されたほかの抗うつ薬を飲んでからだに合わず他のものに変えてもらうなどしていました。元彼の(大学時代の)先輩からは事情を知らぬままなのに「親を大事にしないからだ」などと罵られましたが年上の女性に怒る気も失せた私が「そうですね、殺されるんでしょうか」と返答したところ何も言わず帰っていきました。

一般的には親子間に問題があれば親から狙われるのでしょうが、私の場合はまったくの他人が使われていました。私には生命保険が限度額めいっぱいかけられているのを知っていました。保険会社に勤めている人からは、そのリスクがあるということを伝えられていました。母にとって私にはそういう利用価値があったわけです。それに反して、私が生きていて、色々と知っていることにも利用価値はありました。従兄や日本人の友人たち、そして海外のある友人たちは私をかくまうのに色々手だてを持っていました。

死ぬ価値と生きる価値です、どんなやり取りもすべては価値というもののバランスの上にありました。盤上の主は私を駒のひとつとして考えていても、私の生死はたった一度きりのものです。私はこっそり、貴金属を集めては少しずつ大きなものへと変えていきました。ふたたびどこかに渡航する可能性を考えていたからです。今度は、身一つで。

私は元彼に助けを求め、いくらか送金してもらい、決定的な瞬間を待っていました。畳む

Nostalgies

道のり(6)
複数言語の環境で、落ち着けるかと思ったのに。

台湾は、不思議な国です。各家庭には家庭語として客家語、台湾語、原住民語などがあります。学校や役所では中国語か英語が使われます。私はこのうち、中国語と台湾語(ホーロー語)を学びだいたい使えるようになっていました。日本にいるうちに、卒業単位にならないとは言われながらも学科を越境して中国語の音声を基礎からやり、その上に第二外国語を続けました。台湾語を約1年間続けましたから聞き取ることは容易な状態で渡航したのです。

そのうちになぜか、私は中国語学校で有名になっていました。奨学金試験で1位を取り、各国から1人しか得られない奨学金を勝ち得ていたからです。しかも、中国語学科出身ではありません。更に台湾語も知っている、おそらくほかの日本人からは「在外台湾人(華人)なのでは?」という疑いをかけられていました。500年さかのぼっても私は日本人です。

こちらが順調な反面、私の実母がひどくおかしくなってしまい、彼氏のご両親に「娘をお願いします」と言ったのに婚姻の手続きをする1週間前にそれを突然やめろと大騒ぎになってしまいました。私はついていけず、精神的な調子を崩しました。適応障害です。

婚約はなかったことになりました。しかし私はまだ学校を修了していません。そのうちに親の「お使いさん」が来ました。学校を勝手にやめさせられ、私は帰国させられました。

母方の一番上の従兄はこれを知って、成田空港に迎えに来てくれました。私があちらで受け取った薬や成績表などを見て、一緒に怒ってくれました。「私はこのまま母と一緒に住むわけにはいきません」と言い、南アジア圏内の人間には「どの学校名もわかる」ルートを辿った経歴ですぐに就職も決まり実家を出ました。それまでのたったの3ヶ月の間に私は体重は10kg落ちてガリガリになりました。それもそうです、毎日パスポートや健康保険証を出せと母に脅迫される時間を過ごしていたのですから。実際には人にそれを預けていました。自分名義の借金なんか作られた日には最悪です。畳む

Nostalgies

道のり(5)
お酒は、まだ。

私たちは無事にそれぞれの高校を卒業し、大学に入学しました。私は元からどこの大学に絶対に入学すると公言していました。親友のおばは見栄を非常に刺激されたことでしょう。滞りなく受験できたようでした。

私はまず彼氏ができ、それと同時に少し悩み始めました。私は日本を離れたいし、彼も日本に就職するつもりはありませんでした。周りには外国人留学生がたくさん集まりました。そのうち<a href="https://nilanjanbandyopadhyay.wordpress.... target="_blank" title="">Nilanjan</a>とも知り合いになったり、タイ人、韓国人、台湾人と話すことが増えました。残念ながら外国語学部には中国人が少なく、接点があまり多くはありませんでした。

卒業前に、私は親友に会いに行きました。飲みに誘ったのです。そのときはまだ、彼女もお酒は飲まないと言ってハンバーガー屋さんに入って一緒に食事しました。

卒業式の次の日、私はもう日本を離れていました。この日、私は親友のことを考えるのをやめました。畳む

Nostalgies

道のり(4)
16歳。死と隣り合わせの生は輝いていると言えるのか誰も答えない。むしろ死ねと言われてしまう。

夏休み。私は店の近くの柏そごうと連結していた柏スカイプラザビル3階からフロアを地下に移すと伝えに来た浅野さんの旦那様に久々に会いました。ひとつの最寄り駅につながった商店街組織でもこんなに会わないものかと思っていました。地権者としての浅野書店は奥様のもので、この旦那様は元日銀職員だったのです。そういった感情の上の事情があり、奥様のお父様は実は結婚を許していませんでした。2018年頃に廃業した彼らの原因は1997年にはそこにあったのです。有限会社なのに、婿として正式に入れずに社員として働かせていたのです。お子さんができるはずもありませんでした。彼は私に結婚は親に左右されてはならないとこっそり話していました。自分の父も自分の娘がそんなことを知らされているとは気付かなかったでしょう。父と彼は同い年の仲間でした。

女は結婚するとき、「嫁として家に入る」のが現実です。いつかは親友ともそういった別れをしなくてはならない…私は目を閉じていました。女の子が2代も続けて生まれることのない父方親族と、床屋というほぼ男性しか来ない環境の中で、私は男の子になれるのではないか、なれてしまえばいいのにと思って現実から目を背けていました。男の子なら、親友と結婚することもできますから。妊娠が禁忌である人と結婚してくれる男性など、いないようなものでしょう。

そう思っている最中に親友やそのおばあ様から連絡が来ました。「二回目の心臓の手術が終わったから、会いに来てほしい。松戸の○○病院にいるから」と。私は京極夏彦の分厚い本をわざと持っていきました。彼女は絶対に読みません。身体に障るからです。

運がよかったのです、彼女の従姉とは会いませんでした。顔を合わせていたら一方的に怒鳴られていたことでしょう。何しろ彼女の父方の姉やその娘は「あの子が早く死ねば、私たちの相続分が増える」と考えていておばあ様は神経をとがらせていました。彼女は私と病室に二人きりになり、胸の傷を見せました。無事でいてくれて嬉しい、終わりまではあなたの命はあなたのものだ、といったことを離した覚えがあります。

早く死ぬことがわかっているのに抗うのは愚かでしょうか。あの従姉とおばさんは私たちを嘲笑していました。それでも私たちは幸せでした。「ハタチ過ぎたらさ、酒を一緒に飲もう」と私たちは約束しました。酒は心臓に悪いものです。でも、生きているうちにしかできないことがあるのです。他の人が病室を訪れない様子を見れば、彼女がやっぱり友達を自分で作ってお付き合いを続けることができていないのはわかっていたんです。畳む

Nostalgies

道のり(3)
”Why long face?"

自由と、友人を守ることの間で揺れ動き続けました。

あのあばら家を後にしてマンションに引っ越し、親友のおばあ様は私に泣いてすがりました。私は親友の従姉にうんざりしていたし、何より高校受験の時に体に無理のきかない人と成績の差がどんどん開いていくのを無視することはできませんでした。父の購入しようとしていたマンションはちょうど、学区の重ならない地域に位置し私の心配を少し削りました。

都市部から郊外へ。それは私の適応したことのない場所で、左手で箸を持つ私に「障碍者!」と呼ぶ人がいるほどの文化の差がありました。傷つくほどの繊細さを持たない私はそれを自分のキャラクター付けとして利用し、あらゆる人に名前を覚えさせました。ただし、あまり有用な人物が見つからず次第に興味を失いました。

高校受験を終わらせた私は、合格通知を手にある人物を訪れました。引っ越すまでの間、ほぼ毎日顔を合わせていたのですが、約1年半の間に彼女は亡くなっており落胆しつつも、彼女の鍵のかからない扉から入り彼女のお気に入りだったあるものを撫でて、そうして立ち去りました。満州出光に勤めていた彼女の旦那様と一緒に持ち帰ったという小さな置物です。

私は店の近所にいた黒人男性と顔なじみになりました。どんなにできが悪くても言語能力は別です。そのうちに私は科学雑誌を日本語から英語に、そして科学雑誌をやめて言語を志すことにしました。この黒人男性はJosephといい、弟と一緒にあの一帯の地主さんのマンションを借りて住んでいました。この地主さんに悪気がないのはわかっていましたが、「あの黒人と口を利くのはやめろ」と言われてしまい、面食らったことがありました。実は、彼は日本語をほぼ話さないので漏れることはないだろうと思い自分の悩みを打ち明けていました。彼はいわゆる典型的なカトリック教徒で、私に「ふしぎのメダイ」をひとつわけてくれて言いました。「学校には、ちゃんと行けよ。何とかなるよ。俺も祈るし、神父様だってたくさん祈るんだ。」

私は祈りたかったけれど、祈る言葉を持たないままではいられないだろうと感じていました。今度は、親友を見送らねばならないかもしれない…と思っていたからです。畳む

Nostalgies

道のり(2)

私の住んでいたおうちはひどいあばら家で、本物のぼろ屋でした。しかしおしゃれなおうちとは違い、「気を遣う必要なんかないだろう?みんなで集まってダベろうぜ」といった中学時代を過ごしました。こうなったのにはわけがあります。私ががさつで傍若無人だったのもありますが、お隣にいた地主のお嬢様は私がいつも店に手伝いに行っていて家にいなくても、生まれつきの病気があったがために私を待っていてくれました。私は彼女のことが大事でした。彼女は心臓が悪かったのですが、「じゃあ私の心臓をくり出して使えばいいよ」などと言うと泣いて嫌がったのです。

しかしある日、彼女は私に詰め寄りました。「一緒に死んで」と。

治療も苦しいし、痛いし、何より彼女のお母様とお兄様が闘病を苦にして入水自殺してしまったことも重なっていました。彼女のお兄様もまた、腎臓病で透析を受けていたそうなのです。

中学生のうちに何度か学校をサボって私たちは一緒に座り込んでいました。碌に校則もない学校だったのに、「時間通り登校して授業を受けてください」なんてものすら守れませんでした。

担任教師は彼女のおうちの事情を知っていて、私に「お前、死ぬなよ」と何度も言っていました。おそらく彼女に直接言うのが恐ろしかったのでしょう。

私は全クラスを渡り歩いて、親友に友達を作らせようとしました。うまくいったと思いきや、彼女が30歳で死ぬ直前にはその時の友達を探そうとした形跡がありました。そう、彼女は友達付き合いが億劫だったというより、どうせ死ぬのだからと消極的だっただけなのでした。

私は放課後に店を手伝い、疲れ果てて、店に行く途中の電車内で何度も倒れました。順天堂の眼科に通っていた時、あのニコライ堂の屋根を見て「あそこには神様がいるらしい、いつか行けたら彼女は苦しまずに人生を終えられるのではないか」と思っていました。早くに死ぬとはあらゆる人に言われていたのです。私はあのとき、あの屋根を見つけられなかったら彼女の「お誘い」を受けていたと思います。

残念ながら、客商売の娘としてはどこかの宗教団体に所属することすら仕事の妨げになるということでこの時に入信することはできませんでしたが、そこに存在するだけでよかったのです。「あそこには神様がいる」と思える特別な場所、神社だとかお寺だとかはうちの店から子どもの足で歩いて20分ちょっとかかり、私の歩く日常の中にはありませんでした。畳む

Nostalgies

道のり(1)

うちの店は一風変わった理容室でした。1945年生まれの父と1947年生まれの母、そして1982年生まれの私がいました。

父は中学を卒業後、地元広島市で住み込みで理容師になり、父親が早くに亡くなったため強権的であった母親との仲が悪化、国家試験を合格後にはそれまでに貯めていたお金をもとにアメリカに渡るか東京に出るかで迷ったようです。

アメリカには本人の大叔母が住んでいたため、まったくの無関係の土地という訳ではなかったためです。GHQの連れてきた黒人男性と懇意になり、人種差別の状況が芳しくないことを理解した彼は東京を選んだのでした。当時の米軍は黒人を貨物輸送機で運び、暴力的な扱いを受けていたので軍役を終えて故郷に帰ることができるというのに泣いて嫌がったのです。「日本では、ただ外国人はただの外国人としてだけ扱う、アメリカよりましだ」と。

母は四国地方から北海道に移り住んだ炭鉱の子として育ちました。一番上の兄は北海道大学を通じてドイツに渡り発電所の研究を、しかしそれは父親をじん肺で失った後のことです。炭鉱会社は父親を失ったこの家庭をそのままそこに住まわせました。この一番上の兄は故郷の母親に宛ててドイツ語で手紙を書き、尋常小学校をかろうじて卒業しただけの彼女は北海道大学で息子に教えた恩師を訪ねて訳して読んでもらったという話が残っています。そんな状況だったため、一番末の妹としての母の健康状態や栄養状態は悪く労災病院で歯を診てもらうまではかなりひどいすきっ歯だったそうです。二番目の兄は炭鉱会社から与えられた土地で農業を営んで自分たちと街の食糧事情に貢献しました。そう、炭鉱は炭鉱だけでは成り立ちません。そのうちに母は中学を卒業後札幌市の理容学校に通い始め、住み込みで働き始めました。彼女はここから、東京都内に居を構えるまでの間何があったのかは一切語りません。私の知ることのない空白です。

父は日暮里、母は水道橋などで働き、そのうち母方の祖母は父との結婚をするよう勧めたようです。しかしこの時、母の姉たちは「原爆の影響があるのではないか」などと言って妨害したようで、父はこの姉たちを一切自宅に呼ばせないようにしていました。決定的だったのはずいぶんのちにそれを小学校高学年になった娘である私に言ったことでした。私は意に介さず「何年かしたらわかるんじゃないですか、でも、みんな広島の牡蠣がおいしいって言って食べていますよ」と流していました。

私の影もなかった1970年代の頃、ある観光会社の社長が「お前が気に入ったから、うちの会社の福利厚生枠で働かないか」と父にお誘いをかけ、父はそれについていきました。中卒で、なんの持ち物や財産もなく、保障もないのであれば会社に入った方が安全です。ところが、80年代に入ると彼は自民党からお声がかかったため政界に入る(選挙活動をするためには社長をやめなくてはならないから)と言い出し、退職金をはずんで「これでお前の店を持ってくれ」と伝えました。

私が生まれる前、彼は関東地方の選挙区内で当選。そして、父は店を構えたものの非常に不安定で一週間店に出てはなかなか決まったお客もつかず母と揉めたようでした。(おそらく馬橋駅近くのある)アパートに私を連れて母と別居しようとしたようです。父はノイローゼになっていたのかもしれません。あの人にたくさんお金を出してもらっても、どんなにカネがあっても自分の力でお客がつかなければ自営業者の我々には何にもなりません。

私の記憶には、非常に立派なおうちにふらっと連れていかれた思い出があります。あれはたぶん彼のお宅だったのだろうと思います。奥様はとても優しかったのを覚えています。数日そのように過ごした後、父は私を連れて母のもとに帰りました。畳む

Nostalgies