No.50

だらだら書いてる。

育児の行き着く最終地点を「親を不要とする域に達する」だと思って生きていますが、大多数の親御さんはそれを喜ばしく思っていないことを知っています。親である自分が子どもに助けてもらうまで生きているという前提で考えているからです。もちろん直接の親子であるならば書類にサインできるのはその子だけなので何かしら手続きをしてもらわなくてはなりませんが、現代的には同居親族でなければ必ずしも介護しなくてはならない訳ではありません。ただ、同居親族を適切に対処せず放置して死なせてしまった場合「保護責任者遺棄致死罪」にあたることになるためとにかく子どもに罪状が渡らないようにするためには別の住所に住んでいてもらわなくてはなりません。いくらなんでも子どもを殺人罪に準ずる状態にしたい親はいないでしょうから(自分がひどい状態で死ぬことになりますからね)。

経済的な問題で親と別居しない・できない人は非常に多いでしょうが、次はこういった問題が考えられるだろうなと思っています。幼い子どもを放置して死なせてしまったり病気・怪我を引き起こした場合がよく取沙汰されますが、実際にはお子さんたちよりお年寄りの方が多く、子どもを自ら持とうとせずとも(書類上親がいない場合を除き)ほぼ全員が親はいますし、絶対数が違いますね。

誰だってお年寄りにはなります、病気や事故で突然死ななければ。今若くても歳を取るわけです。昔の感染症だと思っていたものが再び湧き上がってくるとダメージが大きくなります。総務省によるともう既に死亡数が出生数を上回っています。親族や賃貸オーナーが片付けきれない場合のことも行政は考えなくてはならないはずですが、数少ない職員が当たっています。

ところで、台湾花蓮での大地震の後数日後にはもう温かいシャワーを被災者が浴びていますが、あれは行政だけの手助けではありません。日本には伝統的な宗教団体と、信仰の篤い(というか、ほぼ迷信じみていると言っていいほどのレベルで畏れを抱く)お金持ちたちの作る慈善団体がああまりありませんね。日本の慈善行動は対象を限定しようとする傾向があります。その信仰を持っている人、会員(氏子、檀家)、経済的に完全なる弱者、障碍者、例えば奨学金なら「とにかくトップレベルの成績」など。台湾の慈善行動はとにかく熱心です。我々日本人は「古臭い」などと忌避しがちですが、慈善を発することがなければ受け取る人も非常に少なくなります。「ふるさと納税」などという見返りのあるものを彼らは寄付とは呼びません。むしろ恥じるべきことです。見返りがないから信仰の対象から希望を与えてもらえるといった思考システムは現代まで人類を連れてきたのですから、もうそろそろ考え直すべきでしょう。

Murmur