No.9

道のり(1)

うちの店は一風変わった理容室でした。1945年生まれの父と1947年生まれの母、そして1982年生まれの私がいました。

父は中学を卒業後、地元広島市で住み込みで理容師になり、父親が早くに亡くなったため強権的であった母親との仲が悪化、国家試験を合格後にはそれまでに貯めていたお金をもとにアメリカに渡るか東京に出るかで迷ったようです。

アメリカには本人の大叔母が住んでいたため、まったくの無関係の土地という訳ではなかったためです。GHQの連れてきた黒人男性と懇意になり、人種差別の状況が芳しくないことを理解した彼は東京を選んだのでした。当時の米軍は黒人を貨物輸送機で運び、暴力的な扱いを受けていたので軍役を終えて故郷に帰ることができるというのに泣いて嫌がったのです。「日本では、ただ外国人はただの外国人としてだけ扱う、アメリカよりましだ」と。

母は四国地方から北海道に移り住んだ炭鉱の子として育ちました。一番上の兄は北海道大学を通じてドイツに渡り発電所の研究を、しかしそれは父親をじん肺で失った後のことです。炭鉱会社は父親を失ったこの家庭をそのままそこに住まわせました。この一番上の兄は故郷の母親に宛ててドイツ語で手紙を書き、尋常小学校をかろうじて卒業しただけの彼女は北海道大学で息子に教えた恩師を訪ねて訳して読んでもらったという話が残っています。そんな状況だったため、一番末の妹としての母の健康状態や栄養状態は悪く労災病院で歯を診てもらうまではかなりひどいすきっ歯だったそうです。二番目の兄は炭鉱会社から与えられた土地で農業を営んで自分たちと街の食糧事情に貢献しました。そう、炭鉱は炭鉱だけでは成り立ちません。そのうちに母は中学を卒業後札幌市の理容学校に通い始め、住み込みで働き始めました。彼女はここから、東京都内に居を構えるまでの間何があったのかは一切語りません。私の知ることのない空白です。

父は日暮里、母は水道橋などで働き、そのうち母方の祖母は父との結婚をするよう勧めたようです。しかしこの時、母の姉たちは「原爆の影響があるのではないか」などと言って妨害したようで、父はこの姉たちを一切自宅に呼ばせないようにしていました。決定的だったのはずいぶんのちにそれを小学校高学年になった娘である私に言ったことでした。私は意に介さず「何年かしたらわかるんじゃないですか、でも、みんな広島の牡蠣がおいしいって言って食べていますよ」と流していました。

私の影もなかった1970年代の頃、ある観光会社の社長が「お前が気に入ったから、うちの会社の福利厚生枠で働かないか」と父にお誘いをかけ、父はそれについていきました。中卒で、なんの持ち物や財産もなく、保障もないのであれば会社に入った方が安全です。ところが、80年代に入ると彼は自民党からお声がかかったため政界に入る(選挙活動をするためには社長をやめなくてはならないから)と言い出し、退職金をはずんで「これでお前の店を持ってくれ」と伝えました。

私が生まれる前、彼は関東地方の選挙区内で当選。そして、父は店を構えたものの非常に不安定で一週間店に出てはなかなか決まったお客もつかず母と揉めたようでした。(おそらく馬橋駅近くのある)アパートに私を連れて母と別居しようとしたようです。父はノイローゼになっていたのかもしれません。あの人にたくさんお金を出してもらっても、どんなにカネがあっても自分の力でお客がつかなければ自営業者の我々には何にもなりません。

私の記憶には、非常に立派なおうちにふらっと連れていかれた思い出があります。あれはたぶん彼のお宅だったのだろうと思います。奥様はとても優しかったのを覚えています。数日そのように過ごした後、父は私を連れて母のもとに帰りました。畳む

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