No.51, No.50, No.49, No.48, No.47, No.46, No.457件]

秋ではない温湿度、ただ朝晩の風は少し冷たいような気がする。何ヶ月かしたらおそらく急激に冬になるのだろう

かったるくて、死にそう。来月と再来月はカネを貯めておいて来年かそのへんには新天地の「てがろぐブロガー」として生きてみよう。

上の子には、「人生の目標って無いの?」と聞かれると「わけのわからない死に方をしないこと」とか、「今年の目標は死なないこと、怪我をしないこと、病気を増やさないこと」などと答えて「本気か?」と疑われているが、こちらは真面目に答えているつもりである。

金とプラチナで迷っている。何が、というと、資産としてではなく、毎日身に着けているクロスペンダントをそろそろ取り換えようか、という話。今私はK10ホワイトゴールドのクロスを着けているが、これはもう15年以上前の霞んだ風の向こうで買ってもらったものだった。夫は神道で、私は正教を信仰している。一般的な日本人は特定宗教に接触のある人物をよく思わない(それどころか面倒くさくて邪魔だろう)から、私としては夫からの「まあ、程々に好きにしろ」というアナウンスだと受け取っている。残念なことに、ルーテル教会や正教との繋がりはさかのぼれば母方の出身地、北海道もあるし、そこまでさかのぼらなくとも授業をサボって図書室にいた小学生時代の一時期があった。

世の中、大多数は勤め人であり、彼らにとって地主や自営業というのは「脱税」や「租税回避行為」と連想されるもろもろの一つ。私は出身地の関東首都圏で旧住民と新住民の間に挟まれ、旧住民からすればよそから来た人の子ではあるが自分で事業をやっている人間として理解と誤解があり、新住民からすれば得体の知れない自営業の子ではあるがよそから来た人間としては理解と誤解があったのでした。私から見た時は、どちらかといえば旧住民の子たちとのなじみがあり、しかし億に達するような財産を抱えるご家庭はあまりにもどろどろとしていて長居は不要、といった次第でした。近所の空き地はある地主さんのご家庭が破滅した跡地だったし、隣同士に住んでいた親友は母親と兄を自殺で亡くしてほかの人からすると「触れるのが恐ろしい」と。恐れることはない、そうね、聖書の中の神様は何も恐れることはないと言ってくれたけれども、親友はどうしても私に「一緒に死んでほしい」と繰り返した。私が子どもを産んだ後はもう、連絡しないでくれと言って一人で死に対峙したが、それは自分が母親にそうされてしまったのを考えたのだろうと思う。私たちはよい別れ方をすることができたのかもしれない。あの子が死んでから12年も経ってやっとこのように思うことができるようになりました。それまでは、30までずっと一緒にいた人間からの求めに応じなかった自分はなんてやつだ、と思っていました。

私にとって、一緒にいてほしいと思った人は次々と持病のために死んだり、離婚を恥じて連絡を絶ったり、いつの間にか目の前から姿を消すのであまりそういう願い方をしてはいけないのかもしれないと思っています。ただ、みずから死んではいけない、思いとどまれと何度でも飽きずに言ってくれるのは首にかかった十字架ひとつで十分だと考えています。ほかの人に言われて受け入れる人はあまり多くないだろうし、言ってくれる人間にも寿命はあるので。

すっげーくだらないんだけど、占い本にハマっている。何がくだらないかっていうと、占いがくだらないとかではなくて、昔よく読んでた雑誌類の派手さが懐かしくてああいうのを求めているため似た感じの派手さを占い本に発見したから買ったという感じがあまりにもくだらなくてまさに私ってカンジ。

ゲッターズ飯田さんの本と、水晶玉子さんの本と、どちらも2026年版を買ってみました。目が覚めるような派手さ!真っ赤にゴールドとか、エメラルドグリーン。そういえば、昔友人に勧められて買ってたコミックス「ミラクル・ガールズ」とか、カバーの色が毎回違っててこういう楽しさがあったよねと今更思い出しました。まあまあ運に恵まれているとは思うのでこれ以上求めるのはどうかと思うのですが、とりあえず幸運があればまどドラで杏子が引けるかもしれない。期待はしておきます。

24℃。風に吹かれていると肌寒いくらい。いや、服の選び方が悪い。もうタンクトップでいてはいけない。

母方のおばが亡くなり、残るは母と長男であるおじだけ。私はこの2人に最後にちゃんと話してほしかったがどうも無理そう。

母の一家は、今はもう面影ない炭鉱の町、北海道美唄市で生まれ育った。祖父という人は末っ子の母が小学生のうちに美唄労災病院(現在は北海道せき損センター)に入院し、じん肺が治ることなく亡くなった。祖母は孫にあたる私が影も形もない時に、父と早く結婚するよう勧め母についてきた関東で亡くなった。

センシティブな話題であるが私の父は1945年1月に広島市内で生まれたが父方の祖母は身重だからとほかの息子2人を連れさっさと広島の山奥に疎開していた。そうでなければこの一家は生き残らなかっただろう。その時代、学校なんか何のその、ということらしい。

母方のおばたちのうち何人かは、父のことを嫌っていたらしい。そんな言葉が私にも投げつけられたが、そのため父は一切そのおばたちの対し家にこさせなかった。祖母はどうして娘たちの気に障った原爆のことも全然気にすることなく母との結婚をむしろ勧めたのだろうか?もうその不思議は解けないと思う。ヒントがあまりにも無さすぎる。

母はあの一番上の兄に対して非常に辛辣な感情を持っている。私の知り得ない感情なので具体的に書くしかないが、彼はじん肺で亡くなった祖父の後に北海道大学へ進学し火力発電の効率化の研究をした。その反面、幼い弟妹へのあれこれはしなかったというかできなかったということだろう。母はいつも飴を食べさせられていたという。ひどいすきっ歯だったらしい。食事は高校へ行っていた兄姉が帰ってきてから作ってもらっていたらしい。祖母は…既に健康状態が悪く時々入院していたと聞く。自分を悪く言われようとも、私は彼らの背景を知りたい一心で話をちらほら聞き出したがなかなか表と裏がかみ合わず、とにかく共通点としては祖父は早くに亡くなり祖母は入退院を繰り返し、長男は北海道大学へ行き生活を別としたのを母は「私たちを見捨てた」と怒りを抱いている、ということだ。

私たちはわかり合えない。何があったのやらと事態を把握することすらできず、ここに出てきた登場人物のほとんどと口を聞いたことがない。私は通り過ぎただけだ。通り過ぎただけの娘が「話をしろ」と求めるのもなにか威圧的すぎる気もするので、私はそう願ったことがある、というものをここに書き留めるだけにしよう。もう母を静かに見送らせてもらおうという計画だけが、私の中にはある。

学校の出入り口が9月11日に冠水した影響で、その近所の坂はアスファルトが花咲いたように穴が開いて、U字溝の外側も隙間ができてしまっています。小中学校の指定通学路なのでこの件を学校職員に報告しました。教頭から区の土木課に連絡するとのこと。

ええと、そこの町内会さん何も言わないのかなあ…私は入ってないけど、PTAの役員さんがその辺に住んでいるはずなんだけど…どちらかが区に言うだろうと思って放置してたんだけど、自転車ユーザーがあまりにもかわいそうだし何より道も細くて危ないから。まあいいや、必要なことは言ったからとりあえずラクになったわ。

■---my---

忘れたいことたくさん、忘れられないことたくさん

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