2025年9月25日の投稿(時系列順)2件]

金とプラチナで迷っている。何が、というと、資産としてではなく、毎日身に着けているクロスペンダントをそろそろ取り換えようか、という話。今私はK10ホワイトゴールドのクロスを着けているが、これはもう15年以上前の霞んだ風の向こうで買ってもらったものだった。夫は神道で、私は正教を信仰している。一般的な日本人は特定宗教に接触のある人物をよく思わない(それどころか面倒くさくて邪魔だろう)から、私としては夫からの「まあ、程々に好きにしろ」というアナウンスだと受け取っている。残念なことに、ルーテル教会や正教との繋がりはさかのぼれば母方の出身地、北海道もあるし、そこまでさかのぼらなくとも授業をサボって図書室にいた小学生時代の一時期があった。

世の中、大多数は勤め人であり、彼らにとって地主や自営業というのは「脱税」や「租税回避行為」と連想されるもろもろの一つ。私は出身地の関東首都圏で旧住民と新住民の間に挟まれ、旧住民からすればよそから来た人の子ではあるが自分で事業をやっている人間として理解と誤解があり、新住民からすれば得体の知れない自営業の子ではあるがよそから来た人間としては理解と誤解があったのでした。私から見た時は、どちらかといえば旧住民の子たちとのなじみがあり、しかし億に達するような財産を抱えるご家庭はあまりにもどろどろとしていて長居は不要、といった次第でした。近所の空き地はある地主さんのご家庭が破滅した跡地だったし、隣同士に住んでいた親友は母親と兄を自殺で亡くしてほかの人からすると「触れるのが恐ろしい」と。恐れることはない、そうね、聖書の中の神様は何も恐れることはないと言ってくれたけれども、親友はどうしても私に「一緒に死んでほしい」と繰り返した。私が子どもを産んだ後はもう、連絡しないでくれと言って一人で死に対峙したが、それは自分が母親にそうされてしまったのを考えたのだろうと思う。私たちはよい別れ方をすることができたのかもしれない。あの子が死んでから12年も経ってやっとこのように思うことができるようになりました。それまでは、30までずっと一緒にいた人間からの求めに応じなかった自分はなんてやつだ、と思っていました。

私にとって、一緒にいてほしいと思った人は次々と持病のために死んだり、離婚を恥じて連絡を絶ったり、いつの間にか目の前から姿を消すのであまりそういう願い方をしてはいけないのかもしれないと思っています。ただ、みずから死んではいけない、思いとどまれと何度でも飽きずに言ってくれるのは首にかかった十字架ひとつで十分だと考えています。ほかの人に言われて受け入れる人はあまり多くないだろうし、言ってくれる人間にも寿命はあるので。

かったるくて、死にそう。来月と再来月はカネを貯めておいて来年かそのへんには新天地の「てがろぐブロガー」として生きてみよう。

上の子には、「人生の目標って無いの?」と聞かれると「わけのわからない死に方をしないこと」とか、「今年の目標は死なないこと、怪我をしないこと、病気を増やさないこと」などと答えて「本気か?」と疑われているが、こちらは真面目に答えているつもりである。

■---my---

忘れたいことたくさん、忘れられないことたくさん

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